戸籍についてのお話も3回目ですが、それだけ戸籍も奥が深く、毎日のように見ているとなかなか興味深い記載が出てきます。実際に遭遇したケースをご紹介します。
天保生まれの被相続人
私が遭遇した一番古い戸籍はこちらです。
戸主の甚蔵さんはなんと天保のお生まれです・・!そして甚蔵さん名義の不動産がまだ残っており、登記簿上は現役の方なのです。戸籍の記載もかなりシンプルですね。甚蔵さんの退隠日(いわゆる隠居した日)しか書いてありません。。
奥様は弘化のお生まれ、ご長男は文久のお生まれ、ご長男の奥様は万延のお生まれ、ということが読み取れます。眺めているだけで、なんだか時代のロマンを感じます。
天保年間とは、時は江戸幕府、将軍は徳川家斉。天保の大飢饉のあと、国内では大塩平八郎の乱、対外的にはアヘン戦争、モリソン号事件など幕政を揺るがす事件が相次ぎ、天保の改革が行われた時代。坂本龍馬、大隈重信、渋沢栄一、伊藤博文など錚々たるメンバーと同世代です。
さて、現在の相続人名義にすべく相続登記をするわけですが、甚蔵さんの手がかりはこの戸籍だけ。依頼者さまのためにがんばって前へ進むしかありません。
まず、この時代は長男への家督相続なのですが、甚蔵さん所有の不動産が果たして家督相続となるのかは厳密にいうと不明です。家督相続の発生時(退隠日)に不動産を甚蔵さんが所有していれば、自動的にご長男へ家督相続されます。ところが、退隠日よりあとに不動産を取得していたとしたら、家督相続とはされず、甚蔵さんの死亡と同時に「遺産相続」の対象財産となります。
なお、「遺産相続」とは旧民法下での相続制度で、現行民法による相続とは少し異なります。(明治31年7月16日~昭和22年5月2日)
「遺産相続」だとすると、直系卑属が第一順位の相続人になるので、長男以外の子ども全員が相続する権利があるということです。
いつ不動産を取得したのかを調べるには、登記簿を見るわけですが、見ると表題部しかなく「所有者 〇〇甚蔵」と書かれているだけ。所有権の書かれた権利部もなく、いつ取得したのか分かりません。
つまり、家督相続なのか遺産相続なのか証明することはできないということです。登記官においても判断することができないので、遺産相続でなく家督相続を原因とする相続登記の申請がなされても、そのまま受理される取扱いになっています。ただし、登記申請をする際には、そのことを承知のうえで登記をお願いする「上申書」を添付しないと、おそらく法務局からお尋ねが入ることになります。ですので、現在の相続人全員のご署名をいただいた「上申書」を作成し、手続きすることとなりました。
思わぬ相続人が登場したケース
次にご紹介するのは、私が担当させていただいたなかで最も相続人の人数が多くなったケースです。
相続登記をする不動産はお祖父さまの名義でしたので、わりとよくあるケースなのですが、戸籍を追っていったところ思わぬことが発覚しました。
お祖父さまは再婚されており、前妻の間にお子さまがいらしたのです。依頼者さまがご自身で戸籍を集められたのですが、このことに気がついておられませんでした。
地方の土地でしたので、一旦相続登記をするものの、すぐにご売却の方向で実際に地元の不動産会社に売却を依頼されておられました。依頼者さまは一刻も早く、土地を処分したいというお考えだったわけです。
戸籍をたどっていくなかで、新たな相続人がいらっしゃる可能性に気づいたときは正直冷や汗が出ました。ですが、このままでは相続登記できません。相続人の確定、という大原則に立ち返り、お時間をいただくことを了承していただき、戸籍をさらに収集することになりました。
前妻との間のお子さまは、ご結婚され、5人のお子さまをもうけ、すでにお亡くなりになっておられました。5人のお子さまの中にもすでにお亡くなりになった方もおられ、そうなるとさらにそのお子さま(お祖父さまからみて曾孫ですね)が相続人となります。いくら戸籍の広域交付請求が可能になったとはいえ、ここまではご自身では集められませんし(広域交付請求できるのは直系尊属のみ)、手間も時間もかかってしまいますね。
結局、相続人は前妻との子の子(孫)、曾孫、後妻との子、孫、曾孫、合わせて総勢17名となりました。戸籍を集めるのに約2ヶ月、さらには皆さまで遺産分割協議書にご署名、ご捺印、併せて印鑑証明書を揃える必要があり、もう少し時間がかかりそうです。
ご依頼者さま、近いうちに現地を見に行かれるとのこと。相続人の皆さまのご住所などをお伝えしたところ、ご親戚とは知らずにお付き合いをされていた、という事実も発覚しました!この度の相続登記のご相談がなければ、知らないままであったであろうご親戚の存在。思わぬかたちでご縁が広がった、ともいえるかもしれません。
ひとつの戸籍に32名!
さて、最初に登場した甚蔵さんに再び登場していただきます。甚蔵さんは退隠したあとはどうなるか、といいますと、家督相続した長男の戸籍に入ります。こちらは、長男の倉松さんの戸籍です。「父」として甚蔵さんがいますね。お母さまもいます。
この倉松さん、大変子宝に恵まれたようで六男五女に加えて養子も迎えられたことがわかります。長男の記載がないのですが、もしかすると残念ながら死産で戸籍に載らなかったのかもしれません。
9人のお孫さん、さらには6人の曾孫さんに恵まれます。お子さんの奥様、お孫さんの奥さまも同じ戸籍に入っていますね。天保生まれから昭和生まれまで合わせて32名!まるで壮大なファミリーヒストリーを見ているようです。とても華々しく、まさにご一族の子孫繁栄が感じられる戸籍です。
「戦死」の文字に心が痛む
最後にご紹介するのはこちらです。
長野県で生まれたこの方、「昭和19年9月⚪︎日時刻不明東部ニューギニアマルジップ附近に於て戦死 昭和22年11月・・長野県民生部長・・報告」とあります。
「ジャワは極楽、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」といわれ、ニューギニアは先の戦争で日本軍がなめたありとあらゆる惨苦が凝縮している戦場だったそうです。享年25。終戦まであと11ヶ月でした。
同じ戸籍にはお母さまの記載もあるのですが、昭和22年1月に亡くなられています。御年53歳。終戦を迎えても未だ帰らぬ息子をどれだけ想い、絶望したことでしょう。戦死の報告を待たずに亡くなられたお気持ちを慮ると、身につまされる思いがします。
一枚の戸籍といえど、その中にはさまざまなご家族のストーリーが広がっているのです。